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斎藤栄3 テレホンサービス1 [斎藤栄]

 今はインターネットやスマホで、必要な時に必要な情報を自由に得ることができる。しかし、30年位前には、情報を得る手段としてテレホンサービスが多用されていた。斎藤作品では、1981年5月に広済堂出版で発刊された「完全アリバイ」に詳しい記載がある。「・・勝手にダイアルしてテープ情報を聞くのが何よりも楽しかった。・・電話サービスにはテープ情報と応対案内がある。しかし応対の方は、こちらも何か準備しなくてはならないので厄介だから、もっぱらテープ情報を聞くのを趣味にしていた。現在、関東地方だけでも約700ものテレホンサービスがある。・・」と。親子の悩みごと問題というテレホンサービスを担当している人物が、吹きこんだ内容の通り行動するようにさせ、結果として殺人が発生してしまう内容の小説だ。

 テープ情報によるテレホンサービスは減っているのだろうが、日本で最初のテレホンサービスをご存じだろうか。NTT西日本のHPのよると、日本最初のテレホンサービスは「天気予報サービス 177」とのことで、詳しい歴史やエピソードが記載されている。1954年9月に試用サービスが開始され、1955年1月1日からスタートし、1964年3月から「177」に統一して現在に至っているとのこと。「177」は「イイ テンキニ ナレナレ」で最初はテープに録音したものをつないでいたとのこと。それでは、「時報 117」はというと、1955年6月10日時の記念日に、テレホンサービス第二弾として始まり、1964年3月に「117」に統一された。サービス開始の初日だけで約53000回もの利用があったとのことで、私も電波時計や携帯を利用する前には、正確な時間を知るために利用していた。
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斎藤栄2 船舶電話 [斎藤栄]

 西村作品や山村作品ではお目にかかれなかった船舶電話が、斎藤氏の作品に登場する。最初に登場するのは1972年に発表された「Nの悲劇」。1973年11月にサンケイ出版で発行された「動く密室」(原題「フェリーKT79に何が起きた」)では内容がより詳しく記載されている。陸上の基地局と船舶との間を無線でつなぎ一般の加入電話との間で電話がかかるようになっているのだろう程度の知識しかなかったのだが、かなり詳しい描写がされている。例えば「・・壁掛式の船舶電話機が設置してあった。本体はかなり大きくちょうどホームテレフォンのそれと同じくらいだが、送受器をかける送受信部はトランジスター化された小型のものであった。一般のものと違っているのはAゾーン、Bゾーンを示す選局ボタンがあることと、通話圏外表示ランプなどがついている点である。・・」とわかり易く説明されている。さらに「・・超短波を使うため日本電信電話公社は・・日本船舶通信株式会社に委託している。・・」と記述され、船舶電話の利用できる海域図まで掲載されている。また、「・・一隻に二台の船舶電話というのはとても無理でしょう。なにしろ現在では申し込んでもつけてもらえない船が1500隻にもなっていると聞いていますからね。・・」と当時の状況が描写されている。現在では各個人が携帯電話を持ち、自由に海外にまで洋上から電話が出来る、隔世の感がある。1973年当時の加入電話数は約2400万件で、積滞数と呼ばれる新規に申込んだもののまだ設置されない電話が約160万件ある状態だった。このような状況では船舶電話を申込んでもすぐに設置されないのも仕方ない状況であったろう。当然携帯電話はまだで、1968年にポケットベルの提供が開始されていた。NTTドコモ歴史展示スクエアによれば、船舶電話は1953年に電電公社が開始した港湾電話サービスが最初で、1959年船舶電話の名称で統一され、日本全国の沿岸から50km以内の船舶間や加入電話との間で通話できるようになったとのこと。実際に読んだ斎藤栄長篇選集④(徳間書店刊)では、影山荘一さんが解説をされており、その中で「・・登場人物の横浜市港湾局の亀山港営部長がでてくるが、この・・港湾局港営部は斎藤氏が1958年から1964年までいた局である。・・」との記載があり、仕事上でも船舶電話に関連し、内容をご存じであったようだ。小説を書く上では調査をするのは当然だろうが、実際に関係していたのならより一層詳細な記述をすることができたであろう。ネット検索でも船舶電話について詳細に記載されているが、斎藤先生の小説中の解説はわかり易かった。
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斎藤栄 1 [斎藤栄]

 今回は斎藤栄氏を取り上げたい。斎藤栄氏は1933年生まれ、西村京太郎氏は1930年生まれ、山村美紗氏は1931年生まれ、で同時代を生きている。江戸川乱歩賞ではお互いにしのぎを削る中であったのだろう。結果として西村、斎藤両氏は江戸川乱歩賞を受賞したが、山村氏は残念ながら受賞には至らなかった。とはいえ、3氏の活躍はご存じの通りである。斎藤氏が江戸川乱歩賞を受賞する前年の1965年(昭和40年)に西村京太郎氏が「事件の核心」(その後、「天使の傷痕」に改題して発行)で第11回の乱歩賞を受賞している。その時、斎藤氏の「愛と血の港」が賞の候補となっており、選者の講評では斎藤氏にも好評価ではあったが結局西村氏の受賞となっている。その翌年の1966年(昭和41年)、斎藤氏は第12回の江戸川乱歩賞を「王将に児あり」(「殺人の棋譜」に改題して発行)で受賞している。日本推理作家協会会報1966年9月号の受賞の言葉で、「四度目の授賞式」として西村氏の後背に甘んじた気持ちを含めた受賞に至る決意を述べられている。これらは江戸川乱歩賞全集⑥(講談社文庫)に収録されている。なお山村氏は3回乱歩賞の候補に挙がったものの、受賞できなかったが、1973年第19回の候補作「ゆらぐ海溝」は松本清張氏により翌年「マラッカの海に消えた」として発行されている。 斎藤氏は作家として独立する前は横浜市に港湾局に勤務していたこともあるため、西村さんや山村さんの小説ではお目にかかれなかった船舶電話や岸壁電話が登場する。これらはまた紹介しよう。
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