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電気時計  鮎川哲也 3 [鮎川哲也]

今回は電気時計を考えていきたい。電気時計と言えば電池で動く直流電源のタイプと、コンセントにつないで交流電源で動くタイプの両方を思いつく。最近では電池を使用するタイプと太陽電池を使用するタイプのお世話になっている。

鮎川作品では、1956年3月に探偵実話に掲載された「一時一○分」に、「・・はあ、電気どけいですから。それに停電の場合は、自動的にゼンマイで動くんですの。絶対に正確ですわ」と電気時計が止まると自動的にゼンマイで動く優れモノが紹介されている。

電波時計が一般でなかった時代、コンセントにさせば動く電気時計は手巻や振り子時計に比べて正確だが、停電になれば止まってしまうのが問題だと考えていた。実際にはゼンマイで停電後も動く優れモノだったようだ。

電気時計について調べると、蓄電池を使用した直流式から交流電源を使用した交流式に進化していった。セイコーミュージアムのHPに交流式電気掛時計が紹介されており、「真鍮枠で交流B式の電気時計。補助ゼンマイ付で、停電時でも止まらない機構を備える。」との記載があり、1935年(昭和10年)にはすでに存在していた。別のHPでは、精工舎製電気時計の説明書が見つかった。それによると、ゼンマイによる補助装置のある電気時計はB式と呼ばれ、停電後も5時間程度は動くとのこと。さらに、新聞記事文庫の中外商業新報昭和9年の記事には、日本の各社が電気時計を開発していることが記載されている。電気時計は停電すると不便だと考えていた私は、戦前から停電を想定した機能があったとは知らなかった。

 今の電気時計は、腕時計の大きさにまで小さくなり、太陽電池で電波時計でGPSによる位置や気圧、更には健康状態までも表示する機器となっている。今後はどんな機能が追加されていくのだろうか。楽しみに見守りたい。
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鮎川哲也 2 [鮎川哲也]

鮎川哲也氏は1919年に生まれ2002年没。一時期、旧満州の大連で過ごし、九州での生活後、第二次大戦後に東京で執筆活動を本格化させ、宝石の懸賞で「ペトロフ事件」で入選して本格デビューした。終戦後の昭和20年代から30年代当時の技術や社会文化に関して、短編小説等を通じて多くの記述が見られる。西村京太郎氏や山村美紗氏以前の戦後期の様子等を垣間見ることができる。西村作品にも影響を与えたと思われる時刻表を利用したトリックなどの推理小説の面ばかりでなく、戦後の様子にスポットをあてて考えていきたい。

 例えばタバコ。今では目の敵にされているが、映画や小説ではちょっとした時間や場を持たせる手段としてよく使われた。ラッキーストライク、ピースなどのほか「・・キセルにバットをつめて・・」との表現など各種銘柄が登場する。
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化石 3  鮎川哲也1 [鮎川哲也]



 今回は化石をタイトルに有する推理小説として、鮎川哲也氏の「憎悪(ぞうお)の化石」を取り上げたい。この作品は1959年11月に「書下し長編推理小説シリーズ1」として講談社から刊行され、第13回(1960年)日本探偵作家クラブ賞を受賞したものだ。光文社文庫版に記載の山前譲さんの解説によれば、同時期に連載されていた「黒い白鳥」と共に日本探偵作家クラブ賞を受賞したとのことで、鬼貫警部シリーズの長篇第2作目。



本書で化石は、「・・奥さんを熱愛していた彼にしてみれば、瀬山にむける憎しみは、・・曾我の表現をかりるならば、それは憎悪の化石だというのだ。・・」との表現で登場する。どのような状況で化石の表現がされているのか、これでは理解出来ないだろう。時刻表の改正に伴う列車の運行時刻の変更を使ってのトリックにより殺人事件のアリバイが構成される。その事件に先立って発生した殺人事件が、妻を暴行された恨みによる犯行のため、殺害後白骨化した遺体から憎悪の化石との表現をしたものだろう。



広辞苑(第六版)で化石を調べると、「①地質時代の生命の記録の総称。②比喩的に、現在に残る古い物や制度。」との記載がある。本書での表現は、どうも地質時代とまではいかないようだ。



 
現在ではスマホで簡単に相手との電話や連絡をすることができるが、本作品が執筆された1959年当時では、電話をかけるだけでも大変な時代だった。当時の電話事情がわかる記載があり、「・・彼は東京まで電話をかけたいのだが、すぐに繋がるだろうかと訊ね、まだ直通になっていないから即時通話はできないというと、しぶい顔でうなずいた。・・」と、熱海から東京まででも直通では電話が出来なかった。実際には、大都市以外の市外電話はほとんど交換手呼び出し方式で、料金により普通、至急、特急の区別があり、特急でも1~2時間待ちが普通という状況だった。当時の電電公社では全国自動即時化などを目的にして、1953年から第1次5カ年計画を策定して、1959年に市外中継交換機の導入などを進めており、自動で相手につながる努力をしていたが、即時に情報交換できるツールとまではいかなかった。現在とは隔世の感があり、携帯電話の登場まではまだ技術の進歩を待たねばならなかった。
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